新春公演文楽鑑賞、観察者を発見する。


先日、文楽人形を観に行ってきましたよ。

今回は二転三転ある演目でした。新春で終わりも悲惨でなく、救済されるという話でした。

文楽って情念の世界なの。

なのでちょっと突っ込みどころは満載でもあります。おそらく現代人の価値観や思いではなぜ、どうしてというような手続きをとる人物たち。

世界はそのまんまであり、その世界の出来ごとを受け入れたり、優しいひとは身を引いたりなどするのですね。そこに思わず何故?というよりもこういう考えの人もいた世界があったり、もちろんこの世界観に馴染みやすい方も多いはずです。

わかって欲しいという気持ちなどは求めてないのだろう。


おそらくまだ人は個人という意識は生まれていないのかもしれない時代の話。

伽羅先代萩では、延々とご飯をたくシーンがありました。

そして食べ物にありつく、犬をみて、なかなかご飯にありつけない子供二人は犬が羨ましいっていうと、この中心人物である乳人は泣いて情けないという一人語りに近いことを語り、踊るのでした。なんだか観客の皆は、眠りの世界へとコックリしかかっている空気が流れたとわたしは感じた。

子供達は、ごめんさないと言ってなだめる。そして、物分かり良く受け入れる。

やはりツッコミどころは満載ですが、義太夫、三味線、人形遣いの方々の技に感服しかり。

最後の演目「壺阪観音霊験記」

妻の観音さまへの夫の目を開かせて欲しいという気持ちが観音さまに届くお話。

旦那さんには届いてないような。

すれ違いの中、夫が谷の下に飛び込み(自死)、妻はそれを見つけ、後追い自殺。

崖に落ちた夫婦を心やさしい妻の心根に打たれた観音さまが現れる。その信心に心打たれて観音さまは、夫は前世の行いが悪いから今日、寿命は尽きることになっていたけど、再生させるという話です。

亡くなる前の夫婦のすれ違いぶりにびっくりなのです。

互いが互いを思っているけれど、気持ちをぶつけているだけっていう。

悲観し、谷ぞこに落ちた夫を見た奥さんの半狂乱ぶりや、もうこのことで奥さんが自分を置いていったことに怒り始めたらいいのにとか思ってしまう私もおり。

立ち上がり、もう新しい人生生きてやるとかね。現代でも難しい決断力ですが、大転換起こって観音さまも表れないという話も面白そう。

こんなに心配してくれている奥さんを、一緒に開眼を祈念しにきた観音さまの元で身を投げるなんて、なんという行為。奥さん一生自分を責めるよ。

ひどいなって思いました。

幼い頃から一緒だったようなのに、なんだこの互いのことを知らないぶりは。もっと本当は話が長いものなのか?

互いのコミュニケーションのすれ違いについて

語り合ってほしいという現代人の私は切にねがうばかり。現代でも難しいのだけれど。

「すれ違い、思い入れによる愛情というドラマ」



観音さまも心を入れ替えて、信じる気持ちを養うために、奥さんに感謝して、観音巡りしなさいよ的なことを伝えていたし、この旦那さんが目が見えて、明るく、奥さんを大事にする人であることを祈るばかり。

文楽の世界って孤独さを感じる。命がふっと消えたり、この人はどうなるんだろうという存在が必ずいる。

先程の夫婦が、谷底に身を投げて死ぬということの寂しさって人が一番怖いことかもしれませんよね。布団のうえで死にたいというのもこの思いにつながると思いますし、だれかを求めるというのは誰かの中に自分を見つけて欲しいという思いだと思うんですよね。

文楽では、観音さまがそれを見つけている。

宗教ってこの大いなる観察者。誰かに見守られていると思わせてもらえる装置なのかもしれませんし、実際そのエネルギーはあるんですけどね。

存在としても。

ひっそりと生きている、ひっそりと生が終わるということを皆が受けれいている。

それぞれがきっと大事なものと生きている。

それがあまりに自己完結しすぎているのでは?と思ってしまう私は、どこかでツッコミを入れてしまうのでしょうね。

それが生きるということだということを、ひっそりと文楽を鑑賞しながら感じる時間でもあるのです。


新春公演


第1部午前11時開演
野澤松之輔=作詞・作曲(ににんかむろ)

伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)
竹の間の段
御殿の段
  政岡忠義の段
壺坂観音霊験記(つぼさかかんのんれいげんき)
土佐町松原の段


沢市内より山の段

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